インタビュー
先人が受け継いできた 刀剣文化を守るために

日本美術刀剣保存協会は、どのように誕生したのですか。
太平洋戦争終結のとき、アメリカが日本に対して恐れていたのは日本刀という武器でした。そのため進駐軍がやってきたときに、国内の日本刀が没収されるという事態になってしまいました。
これでは日本刀の文化が途絶えてしまうと危機感を持った本間薫山・佐藤寒山両先生はじめ有志が立ち上がって保存運動を始めました。すると意外にも米軍の憲兵司令官キャドウェル大佐という人が「行政や政府ばかりに頼っていないで刀剣を愛する人たちが自分たちで守り続けることが大切だ」と示唆を与えました。これがきっかけとなって全国の愛刀家が一致団結し、昭和23年に日本美術刀剣保存協会を国立博物館内に設立したのです。
こうした経緯で設立した協会ですから、寄贈されたり保管・管理を委託される刀剣や刀装、刀装具が多く、それらを公開鑑賞普及する場として昭和43年、渋谷区代々木に移り刀剣博物館を開館しました。
それから50年余り経て平成30年1月、この墨田区両国に新築移転し、新たな刀剣博物館としてスタートしました。
また昭和52年11月島根の日刀保たたら復活火入れ式には、私も父について行き、感動を受けました。そのときは、まさか平成29年1月に会長としてたたらの火入れ式に来ることになるとは夢にも思っていませんでした。たたら事業は文化庁の選定保存技術の認定を受け、日立金属(株)さんと連繋し、日本美術刀剣保存協会の重要な事業のひとつとなっています。
歴史ある協会の会長に就任されたときの思いを教えて下さい。
小野前会長が任期中に体調を崩されたため、期の途中から急遽、引き継ぐことになりました。突然のことなので前会長からも折にふれ電話でご指導頂いたりしました。刀剣博物館を移転させる2年前の平成28年7月のことです。
微力ながら会長職をお引き受けしたのは、先人先輩の思いはもちろんのこと、父も協会の顧問を務めていたこともあり、ご縁があると感じていたからですが、何より、日本刀の文化は先人たちが苦労して伝えてきた文化ですから、それを大事にしなければという気持ちが決断を後押ししたのかもしれません。
刀剣ブームをきっかけに、 次の展開へ

「刀剣乱舞」による刀剣ブームをどう受け止めていますか。
昔は刀を作る職人さんが暮らしの身近なところにたくさんいました。「反りが合わない」「鎬を削る」「つけ焼き刃」「抜き差しならない」など刀に関連した慣用句もたくさんあり、日本人の暮らしに密着したものでもあったわけです。
しかし、今では特殊な文化のようになって愛好家以外の人には遠い存在になってしまいました。美術品というより、武器というイメージを持っている人も少なくありません。
こうしたイメージを変えたのが「刀剣乱舞」でした。そのおかげで多くの刀剣女子が博物館を訪れてくれるようになりました。「刀剣乱舞」ブームの噂を聞いて、私もオンラインゲームを拝見しましたが、全く想像もできないような表現に驚きました。しかし、この刀剣ブームは素直にありがたいことだと感じています。
大切なことは、このブームを一過性で終わらせないこと。これを入口に歴史・文化に関心をもってもらえばと思いますので、これからいろいろな催しの企画を発信し、美術品としての刀剣の魅力を伝えていきたいと思っています。
現在刀剣博物館は、刀剣女子や外国のファンが来館、順調に推移致しております。東京オリンピックをひかえ、都名勝安田庭園を借景に、日本文化の粋である刀剣の博物館は大勢の皆様が御来館されると期待致しております。墨田区は、美術館博物館が多数集積しており賑やかになることでしょう。
致道博物館に所蔵された短刀が「刀剣乱舞」のキャラクターモデルになっているようですね。
その刀は、正宗、義弘と並んで天下三作(てんがさんさく)の一人と称される短刀の名手・吉光の作品「信濃藤四郎(しなのとうしろう)」です。「信濃藤四郎」という名前が付けられているように、元々は徳川家康の重臣、永井信濃守尚政(ながいしなののかみなおまさ)が所有していましたが、のちに酒井家に伝来したと伝えられています。
吉光の短刀はステイタスみたいなところがあって、ほとんどの大名家が所有していたと言われていますね。
「信濃藤四郎」を目当てに入館者が飛躍的に増えました。刀剣乱舞と致道博物館のコラボレーション企画を開催するのですが、そのときは全国津々浦々から大勢の刀剣女子が訪れてくれます。
訪れた人に庄内の印象を聞くと「どこにあるのか知らなかった」、「行ったことがない」、「そこまで行なっていられない」という答えが返ってきたことです。それでも来てもらえたのはなぜかというと、刀剣女子が発信するSNSでアクセス方法やお手頃価格の宿泊先などを知らせ、遠方からでも安心して足を運んで頂けたというわけです。刀剣女子にとってSNSは欠かせないツールだと実感しましたね。
400年にわたり 地域に根付く 旧庄内藩主として

旧庄内藩酒井家のルーツを教えて下さい。
酒井家の一番の祖は酒井忠次(ただつぐ)で、徳川家の「四天王」の一人と称された譜代家臣でした。徳川家康の叔父にあたり、家康よりも16歳年上で、戦国期には徳川家康を支えていました。
譜代は基本的にサラリーマンですから転勤が多く、酒井家は全国各地に転勤し、忠次の孫で酒井家3代の忠勝(ただかつ)が庄内に入り、元和8年(1622年)庄内藩を興しました。以降、三方領地替え(さんぽうりょうちがえ)の幕命により長岡への転封命令が下されることもありましたが、明治まで酒井家が転封することはありませんでした。
私が館長を務める致道博物館の名称は、庄内藩酒井家9代忠徳(ただあり)が「藩校 致道館」という学校を創設したことに因みます。致道館の精神は個性を伸ばし、自ら自発学習に取り組む姿勢を育むことにありました。自ら学ぼうとする意欲がなければ、学問は身に付かないという考えからです。そして、自ら学んだことをみんなで討議して自学自修の結果を確かめたり、深めたり、反省したりする修学法を大切にしていました。現代でいうところの大学院大学のゼミナール形式と同じですね。こういう教育を進め、自ら考えて行動できる人材を育成していたようです。
また、話は少し変わりますが、忠徳は、人一倍刀に愛着をもっていたことでも知られています。
家臣の刀をすべて借り上げて鑑定し、その刀についての感想を書き、刀と一緒に(持ち主に)返していたそうです。家臣たちに、できるだけ良い刀を身に付けるようにと愛刀家らしいアドバイスをしたそうです。
18代当主として特別な生活を営まれているのでしょうか
18代といっても特別なことは何もありません。大学を卒業して関係企業勤めという感じです。酒井家に伝来した刀に触れたのは社会人になってから。現在は、庄内藩にかかわる施設の運営・管理に携わっています。
地域の人からは親しみを込めてでしょうが、「殿」と呼ばれることはあります。最初は否定していましたが、そのうち面倒になって「ニックネームだと思えばいいか」と受け入れています。
それが祖父の時代は、かなり違っています。普段からお付きの人がいてお金を触ることさえなかったと聞いています。父の代からかなり現代風に変わってきたようですが、それでもお殿様扱いを受けていたようです。
文化は、 強い意志がなければ守れない

刀剣文化を守っていくために大切なことは何ですか。
直木賞作家、藤沢周平先生から「文化というものは保護保存する強い意思がないと残らないものだということを学びました。文化の保護と保存にご苦労さまです。ご尽力下さい。」というメッセージ入りの年賀状をいただいたことがあります。確かに文化の予算というのは、どんどん削られていくところがある。だからこそ、文化を守り、育てていくためには、強い意思がなければそこで終わってしまうことを思い知らされました。
おいしい料理も、産業も、デザインも、すべて文化の賜物ですから。文化で、心が豊かになる。しかし、文化は時代に流されて姿を消す恐れもあります。刀剣の世界も、まさにそう言えると思うのです。強い意志がなければ、日本の刀剣文化を守ることができないということなのでしょう。
この世界から人間国宝を

会長としてこれからの目標をお聞かせ下さい。
刀剣博物館両国移転開館、日本美術刀剣保存協会設立70周年、日刀保たたら操業40周年を迎えた平成30年は記念すべき年となりました。この平成の年の節目に新年号が制定され、新たな気持ちで博物館事業、たたら事業、保存顕彰事業の愈々の充実を図り、保存普及を夢と使命感と情熱をもってすすめて参ります。
そのなかで私たちが常々残念に思うのは、人間国宝(重要無形文化財保持者)がいないことです。美術刀剣分野から人間国宝をと強く望みます。
そうした背景もあって名工たちの存在を明らかにしていくための取り組みとして平成30年は「現代刀職展」という催しを、10月から11月にかけて刀剣博物館や致道博物館などで行なっています。
わが国の刀剣文化は、刀工だけではなく柄前(つかまえ)師、柄巻(つかまき)師、研ぎ師、鞘(さや)師などの総合芸術として成立していますので、そういった人たちの熟練の技術を「現代刀職展」で紹介し、多くの皆さんにご理解して頂けたと思います。
社名・役職などはインタビュー当時のものです。
インタビュー:2018年11月